LOGIN第6話 ウサギと織物
「ご馳走様でした」
食事の間、シリルがフィリスのことについて、名前以外で何かを聞くことはなかった。
どこの生まれだとか、どうして森で追いかけられていたのだとか、どうして借金のカタに売られたのだとか。
フィリスとしても、もはや思い出したくもないことだったので、聞かないでくれたのは、ありがたかった。
フィリスは、食べ終わった食器をシリルの分も重ねて集めた。作ってもらったのだから、片付けくらいはしたい。
フィリスが食器を持って家の玄関へ向かうと手が塞がったフィリスの代わりに、シリルが扉を開けてくれた。やっぱりこの方は、お優しい。
フィリスがお礼を言うと、「これくらい普通だ」と言って、シリルはそっぽを向いてしまった。
「わぁ、素敵な家ですね」
フィリスは、家に入ってすぐにその内装を見て顔がほころんだ。
明るい木材を張った床と壁。床には温かみのある赤に白のウサギが描かれたカーペットが敷かれていて、思わず笑ってしまった。部屋の奥には石造りの暖炉とキッチンがあり、二階に続く階段もあった。
「ご主人様は、ウサギがお好きなんですか?」
シリルに聞いてみたが、聞こえないふりをされてしまった。たぶん好きなんだ。
キッチンのシンクに食器を置き、蛇口を捻る。
シンクに置いてあった固形石鹸で食器を洗った。
洗い終わったものは、何も言わずにシリルが受け取り、布巾で拭いて、食器棚へしまってくれた。
二人分の食器は、あっという間に洗い終わってしまった。何とかして、シリルに褒めてもらいたいフィリスには、少し物足りない時間だった。
「あの、ご主人様」
「なんだ」
「他にお手伝いできることは、ありませんか?」
とその時――ガリガリと家の扉を引っ掻く音がした。
シリルが開けるとルミが飛び込むように部屋に入ってきた。そしてすぐにフィリスのスカートを咥えて引っ張った。
「いってやってくれ。俺も他にやることがあるから」
シリルはそう答えると階段を上って、姿が見えなくなってしまった。
フィリスは、短いため息を吐いてから、「行きましょうか」とルミの大きな白い頭を撫でた。
* * *
ルミがフィリスを引っ張ってきたのは、昨日と同じ厩舎だった。ルミは、作業台の上に乗った自分の毛の塊の前でドスンと飛び跳ねた。
「さっさと何か作れってこと?」
どうやら正解のようで、ルミが頭を勢いよく下げた。
「じゃあ、ひとまず全部糸にしてしまいましょうか」
フィリスは、厩舎の中央に立って目を閉じた。意識を作業台の上にある毛と寝台の上にある毛に集中させる。両手を組み合わせると毛の塊からそれぞれ太さの違う糸が宙を舞うように紡ぎ出された。
寝台の上にあった羊毛のような毛からは、毛糸のような太さのある糸。
作業台の上にあった背中の毛と首下の毛と耳の毛は、それぞれ別々の細い糸へと姿を変えていった。
「キュウ!」
ウサギって、キュウって鳴くんだ……
ルミは、つぶらな瞳を輝かせながら、宙を舞う糸たちを目で追いかけた。
フィリスは、その様子に笑みをこぼしながら、糸を紡ぎ続けた。
ものの数分で、作業台の上には、輪になった糸の束が山になった。全部で毛の種類ごとに四種類の糸が完成した。でも、全て同じ色だから少し物足りない。ご主人様はきっと、白い服は着てくださらないだろう。
「ねえ、ルミ。この辺りに七彩花《しちさいばな》は、生えてない? あれがあると糸が染められるんだけど」
そう聞くとルミは、ぴょんぴょんと厩舎を出た。フィリスも厩舎の前にあった桶を持って、ルミを追いかけた。
厩舎の裏の森を少し進んだ先、森の木が開けた場所に一面の花畑が広がっていて、フィリスは、息を呑んだ。
「すごい! これ全部、七彩花の花だわ」
そこには、赤や黄色、青や紫など色とりどりの花が咲き乱れていた。全て同じ丸い花弁の花なのだが、花の株ごとに花弁の色が違う。この七彩花という花だと簡単に糸を染められるので、ヴァイセン織物工房でもよく使う染料の一つだった。
フィリスは花の株に余計な傷をつけないように、花の下の細い茎を爪でつまんで、花だけを採取した。黒色を作るには、色々な色を混ぜる必要があるので、せっせと花を摘んで桶に入れた。
「よし、これだけあれば、ひとまずいいかな」
桶の半分ほどに七彩花の花が溜まった。厩舎からも近いし、足りなければ、また採りにくればいいだろう。
フィリスは、ルミを連れて、来た道を戻った。
「じゃあ染めようか」
まず、採ってきた七彩花を厩舎の前の草の上に出して置く。そしてフィリスは、湖から澄んだ水を汲んで、水の入った桶を三つ用意した。
「赤と黄色と青の花をそれぞれちぎって入れるのよ」
フィリスは、摘んできた花をちぎって、桶に入れていく。赤い花は、一番右の桶。黄色い花は、真ん中の桶。青い花は、左側の桶と分けてちぎって入れた。
花弁から絵の具がにじみ出るように色が出て、ちぎり終わるころには、色水が完成していた。
ルミがつんつんと前足で青い色水に触ると、真っ白の毛の先が少しだけ青くなってしまった。必死になって取ろうと湖に前足をつけるルミだったが、湖に浸けても青色は落ちなかった。
「七彩花の色は、一度ついたらなかなか落ちないの。そこは、後で鋏で切ってあげるね」
そう言って、ルミを慰めると、ルミは機嫌を直したのか耳を後ろに倒して目を細めた。
フィリスは、四種類の糸をそれぞれの桶に入れた。手で触らないように、その辺で拾ってきた木の枝でぐるりと桶の中を回すと白い糸に色が入っていく。枝に糸を引っかけて持ち上げると、しっかり染まっているようだ。
ふと人の気配がしたので家の方を見ると、シリルが家の横の納屋から長い板材を出しているところだった。板材を肩に乗せて、せっせと家の中に運んでいる。何か作っているのだろうか?
何を作っているのか分からないが、急がないとあっという間に日が暮れてしまう。フィリスは、なんとしても今日中にシリルのために何かを作ってしまいたかった。
色のついた糸の束を枝ですくい取って、草の上に並べる。少し置いておけば、色移りもなくなるので、そうすれば物干しにでも移して干せばいい。
「よし! じゃんじゃん染めちゃうよ!」
フィリスは、休むことなく手を動かし続けた。
* * *
「ふぅ、そろそろ乾いたかな」
湖の前の一番日当たりのよい場所に並んだ物干しざおには、色とりどりの糸が風に揺れて靡いていた。もちろん黒い糸もある。
温かい日ざしのおかげで、干した糸はすっかり乾いたようだ。
「ルミは、何色が好き?」
ルミに聞くと、ルミは物干しざおに吊るされた赤い糸を鼻でつついた。ルミは、赤が好きなんだね。
「よし、じゃあルミには、ご主人様とおそろいのマットを作ろうか」
フィリスは、毛糸のように太い赤い糸の束と染めずにとっておいた白い太い糸を肩に担いで、草の上に置いた。
目を閉じて、両手を組み合わせる。
ご主人様の家にあったウサギ柄とおそろいのマット。
ルミがリラックスできるマットにしたい。
そう念じると、赤と白の糸は、空を舞いながら厚手の生地へと姿を変えた。
「ルミ、できたよ」
出来上がったのは、大きな白いウサギの柄が中央に一羽織り込まれた大きなマットだった。ウサギの周りは、赤い糸が織り込まれ、赤と白のコントラストが美しい一品となった。
それを見たルミは、耳をぴんと立てて、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。すぐにマットの端を咥えて自分の厩舎まで持っていき、器用に寝台の上に敷く。その上に自分もさっそく乗ってすりすりと顔を擦りつけた。どうやら喜んでくれたみたいだ。
「よし、次はご主人様のだ」
フィリスは、ルミの首の毛から作った綿に近い触り心地の黒い糸を物干しから降ろした。これは、ご主人様の服にしよう。
さて、どんな効果をつけるべきか……
フィリスは、腕を組んでしばらく唸った。
「そうだ! 動物に好かれる効果をつけてみよう!」
ウサギがあんなに好きなんだから、きっと他のモフモフも好きに違いない。
フィリスは、シリルがルミや小鳥たちに囲まれて嬉しそうにしている姿を想像しながら祈った。
黒い糸が宙を舞い、今度はそのまま服の形へと織られていく。
シンプルな長袖のティーシャツがふわりと草の上に乗った。
すぐにご主人様のところに持っていかなきゃ、と思ったのだが、ここでフィリスは自分の恰好も見直した。
追いかけられたせいで、所々裂けてしまったスカート。胸元も借りたケープで隠したままだ。
先に、私の服も作ってもいいよね。
フィリスは、モスグリーンの糸と白い糸を物干しから降ろして祈った。
今度、出来上がったのは、モスグリーンのワンピースと白いエプロンだった。これには、急いでいたのもあって、特に効果は、つけなかった。
フィリスは、出来上がった服を持って厩舎に駆け込み、着ていたドレスから新しく出来上がった服に着替えた。借りていた黒いケープと新しく作った黒い服を持って、フィリスは、家に走った。家に駆けこむと、ちょうどシリルがキッチンに立って、夕食の鍋をお玉でかき交ぜているところだった。
「あの、ご主人様」
フィリスが声をかけると、シリルが振り返った。
その銀灰色の瞳で見られただけで、フィリスの心臓は早くなった。
第7話 初めての贈り物「どうかしたか?」「あの……その……」 窓から夕日が射しこむ家の中。フィリスは、恐る恐るシリルに近づくが心臓がバクバクして、次の言葉がなかなか口から出てこなかった。 フィリスが言い淀んでいるうちに、先に口を開いたのは、シリルだった。「着替えたんだな。よく似合ってる」「ひゃ」 ご主人様が笑いかけてくださってる! 社交辞令だということは、もちろん分かっているが、この美しい顔の人が自分の作ったものを褒めてくれていると思うと、とてもじゃないが冷静ではいられなかった。嬉しいものは嬉しいのだ。 工房に閉じ込められて、ドア越しに聞いていた褒め言葉でされ、生きる喜びになっていたのだ。目の前で聞くのは、その比じゃない。 フィリスは、シリルに褒めてもらった言葉が嬉しくて、何度も頭の中で反芻した。「自分で作ったのか?」「はい……ルミの毛で作りました。その……私」「もしかして、祝福持ちなのか?」 口ごもっていたら、先にシリルが聞いてくれた。 フィリスは、遠慮がちに目線を下げて頷いた。自分の力のことを誰かに話したのは、これが初めてのことだった。「なるほど。それで、ルミはフィリスを助けたんだな」 フィリスは、どういうことか分からずに首を傾げた。「ルミは、ブレスラビットって種類の魔獣なんだ。ブレスラビットは、祝福持ちに惹きつけられる特性があるんだ」「へぇ」 だからルミは、神織りを見たがるのかな? よく分からないが、たぶんそういうことなんだろう。「あ、忘れるところでした! これ」 フィリスは、やっと本題を切り出した。手に持っていた黒のケープと新しく作った服をシリルの前に腕をぴんと伸ばして差し出した。「その……助けていただいたお礼に、ご主人様の服も作りました。お納めください!」 最後の方は、恥ずかしくて、シリルの顔を見ることができなかった。 シリルは、服を受け取ると貸していた方のケープをソファーの上に置いて、新しい服の方を広げて目を見開いた。「すごい、縫い目が一つもないんだな」「はい……神織りっていう祝福なんです」 神織りで作った服は、普通の服のように縫製をしていないから縫い目がない。なので、衣類にすると普通の既製品より着心地がいいのだ。「着てみてもいいか?」「はい、どうぞ」とフィリスが答えるか、答え終わらないうち
第6話 ウサギと織物「ご馳走様でした」 食事の間、シリルがフィリスのことについて、名前以外で何かを聞くことはなかった。 どこの生まれだとか、どうして森で追いかけられていたのだとか、どうして借金のカタに売られたのだとか。 フィリスとしても、もはや思い出したくもないことだったので、聞かないでくれたのは、ありがたかった。 フィリスは、食べ終わった食器をシリルの分も重ねて集めた。作ってもらったのだから、片付けくらいはしたい。 フィリスが食器を持って家の玄関へ向かうと手が塞がったフィリスの代わりに、シリルが扉を開けてくれた。やっぱりこの方は、お優しい。 フィリスがお礼を言うと、「これくらい普通だ」と言って、シリルはそっぽを向いてしまった。「わぁ、素敵な家ですね」 フィリスは、家に入ってすぐにその内装を見て顔がほころんだ。 明るい木材を張った床と壁。床には温かみのある赤に白のウサギが描かれたカーペットが敷かれていて、思わず笑ってしまった。部屋の奥には石造りの暖炉とキッチンがあり、二階に続く階段もあった。「ご主人様は、ウサギがお好きなんですか?」 シリルに聞いてみたが、聞こえないふりをされてしまった。たぶん好きなんだ。 キッチンのシンクに食器を置き、蛇口を捻る。 シンクに置いてあった固形石鹸で食器を洗った。 洗い終わったものは、何も言わずにシリルが受け取り、布巾で拭いて、食器棚へしまってくれた。 二人分の食器は、あっという間に洗い終わってしまった。何とかして、シリルに褒めてもらいたいフィリスには、少し物足りない時間だった。「あの、ご主人様」「なんだ」「他にお手伝いできることは、ありませんか?」 とその時――ガリガリと家の扉を引っ掻く音がした。 シリルが開けるとルミが飛び込むように部屋に入ってきた。そしてすぐにフィリスのスカートを咥えて引っ張った。「いってやってくれ。俺も他にやることがあるから」 シリルはそう答えると階段を上って、姿が見えなくなってしまった。 フィリスは、短いため息を吐いてから、「行きましょうか」とルミの大きな白い頭を撫でた。* * * ルミがフィリスを引っ張ってきたのは、昨日と同じ厩舎だった。ルミは、作業台の上に乗った自分の毛の塊の前でドスンと飛び跳ねた。「さっさと何か作れってこと?」 どうやら正解のようで
第5話 新しい雇い主 フィリスは、ウサギから外した鞍を壁のフックにかけて、隣に吊るしてあった銀の櫛を手に取った。 櫛を持ったら、すぐにウサギが自分で近づいて来たので、梳かされることは嫌じゃないのだろう。 フィリスは、そっとウサギの背中に櫛を入れた。柔らかい毛の感触が櫛を通して伝わってくる。ウサギもうっとりと目を閉じて、気持ちよさそうだ。「ねぇ、ウサギさん。私もあなたのこと、ルミって呼んでいいかしら?」 確かあの人は、この子のことをそう呼んでいた。 フィリスの言葉にルミは、うんうんと頷く。人の言葉が分かっているみたい。 フィリスは、丁寧にルミの全身に櫛を通した。梳かしてみて気がついたのだが、ルミの毛は、部位によって毛の質が違うようだ。 背中は、絹のように艶のある長い毛。 腹は、ふわりと暖かく羊毛のよう。 首の下から胸にかけては、きめが細かく綿に近い。 耳や顔周りの毛は、さらりとした肌触りだ。 これなら毛の種類で、違う種類の糸や生地が作れそうだ。 フィリスは、だんだん楽しくなってきて、ハーフアップにしていた自分の髪をひとまとめに結い直した。 ルミは、毛を梳かされるうちに眠くなったのか、厩舎の地面の上に頭をもたげて寝てしまった。 フィリスは、ルミが寝てからも手が止まらず、毛を梳かし続けた。 梳かして取れた毛を部位ごとにひとまとめにして作業台に乗せていく。どんどん毛の塊は大きくなり、作業台には乗り切らなくなってきたので、一番たくさん獲れた腹の毛は、奥のルミの寝台に乗せた。「ふふ、これだけで立派なクッションみたいね」 寝台の上に乗った毛は、大きなクッションほどの大きさになり、まるで空に浮かぶ雲のようだ。それを見ているとなんだか乗ってみたくなってきた。 フィリスは、履いていた靴を脱ぎ、寝台の毛に身を預けた。 柔らかい! それにすごく暖かい! 毛の上に体を預けて横になった。ふわふわの毛に包まれたみたいで、それだけで体の力が抜けた。 目の前には、すやすやと寝息を立てる大きなルミ。その奥、厩舎の外には、月や星の光を反射させて優しく光る湖。 はぁ、すごく素敵な場所。 フィリスは、真っ白な毛に包まれながら自分の幸運を神に感謝した。 少しだけ、休んでもいいよね。 暖かな毛に包まれていると、自然と瞼が重くなった。* * *「おい
第4話 ウサギと死神 フィリスの頬に涙が伝った――その時。 店長の後ろの木の陰から大きな何かが飛び出した。 月明りに照らされて白く光る巨体は、木々の間を抜け、一気にこちらへ走ってきた。「お、おい、どうした、ルミ!」 一緒に男の戸惑う声が聞こえた気がした。「うわ!」「ぐお!」 白い塊は、店長を弾き飛ばし、フィリスに跨っていた兵士も前足で弾くようにして押しのけた。店長と兵士は、たまらず悲鳴をあげた。 フィリスは、涙で歪んだ視界をこすって、起き上がった。そして、目の前にいた生き物を見て、大きく目を見開いた。「……うさぎ?」 長い耳に丸くて短い尻尾。 まるでフィリスを守るように、店長と兵士の間にいたのは真っ白なウサギだった。だけど、ただのウサギではない。体がクマのように大きいのだ。 しかも、大きなウサギの背中には鞍が固定され、その上には黒髪の男が跨っていた。「おい、お前、何者だ!?」 飛ばされた兵士が怒鳴ったが、店長が兵士の肩を叩いて首を振った。「旦那、あの黒髪の男、ありゃ最近この森に住み着いたって噂の黒衣の死神だ」「あれが……黒衣の死神……?」 兵士がごくりと唾を飲みこんだ。そして腰に手をやるが剣を持ってきていなかったことに気がついたのか、店長と一緒に一歩後ろへ下がった。 黒衣の死神の話は、フィリスにとって初めて聞く名前だったが、逃げられるなら何でも良かった。「おい、死神。その女は、俺が今晩買った女だ。こちらへ渡してくれないか」 兵士がまだあきらめきれないらしい。だけど大きな白兎がフィリスにぴったりと体を寄せて、フィリスを隠した。上に乗っている男は、ため息を吐いて頭を掻いた。「いくらだ」「あん?」「いくら払ったのか聞いている」「俺は、前金で金貨五枚だ」 ウサギに跨った男は、舌打ちをしてから上着のポケットから革袋を出して、兵士に放った。「金貨八枚入っているはずだ。それでいいだろ」 兵士は受け取った袋の中身を数えて、それでも口惜しそうにフィリスを見た。 フィリスが恐怖で震えるとウサギがふわふわの鼻先でフィリスの頬を撫でた。「死神の旦那、うちの店は、借金のカタとして、その娘を買ったんだ。返してもらわないと困る。こっちは金貨百枚だ。それも旦那が払ってくれるのか?」「さすがに百枚は……今は持ち合わせていないな」 黒髪
第3話 売られたフィリス 馬車に乗って連れてこられたのは、大衆居酒屋のような店が連なる通りだった。店自体は、どれも明るいのだが、街灯がない通りのせいかどこか陰鬱な雰囲気だった。 父と継母は、馬車から降りなかった。 マリエッタが先に馬車を降り、フィリスの手を優しくとって、馬車を下ろしてくれた。「この大きな店が新しい職場よ。どう? にぎやかで良さそうでしょ? 住み込みの仕事なのよ」 マリエッタが指さしたのは、馬車を降りてすぐの大きな店だった。 一階がレストランになっているようで、たくさんの女たちが客に給仕しているのが窓から見えた。 新しい職場は、飲食店なんだ! 年の近そうな女の子がたくさんいる明るい店内で、フィリスは、ほっと息を吐いた。住み込みだと言うし、ここで仕事をしていたら、もう実家には帰らないかもしれない。 フィリスは、馬車に乗ったままの父と継母に頭を下げた。「今までお世話になりました」 父も継母も、また三日月のような目で笑って、手を振った。「新しい職場でも頑張りなさい」 父の言葉が胸に刺さった。ずっと頑張ってきたことを父が気がついていてくれたんだと思えたから。「さぁ、行きましょう」 マリエッタに手を引かれ、フィリスは店の裏手へと連れていかれた。 明かりがない暗い路地。裏口なのであろう扉をマリエッタがノックすると中から初老の男が一人出てきた。「店長、約束通り連れてきたわよ」 マリエッタの言葉に、店長と呼ばれた男はフィリスの顔をじろじろと舐めまわすように見てからニヤリと笑った。何本か抜けてなくなった歯が見えて、フィリスは背中がぞくりとした。「随分と上物じゃないか。いいだろう。これで、ヴァイセンさんとこの借金は、チャラにしておいてやる」「……借金?」 フィリスがどういうことか聞こうとマリエッタを見たが、フィリスの腕を店長がぐいと引っ張って、そのまま店の中へと連れ込まれた。 扉が閉まる一瞬、マリエッタの恍惚とした笑みが見えた。 店長は、フィリスの腕を引っ張ったまま暗い廊下を進んだ。「おい、娘。名前はなんという」「……フィリスです」 前を歩く店長は、ふっと笑った。「経験は?」「……なんの経験ですか?」 ここで初めて店長は足を止めた。「まさかお前、生娘か。これはいい買い物だったな」「え……」 店長の言葉に、フ
第2話 忘れられない日 迎えたお見合い当日。 夜のヴァイセン織物工房から一番に工房から出てきたのは、黒のタキシードにシルクハットの父だった。工房の前に止まった馬車に乗り込むとすぐに鼻の下の髭を丁寧に整えた。 父に続いて馬車に乗ったのが継母とマリエッタ。二人とも新しいドレスを着て、顔は期待で輝いていた。 最後がフィリスだ。マリエッタに貸してもらったくすんだローズピンクのドレスは、胸元が大きく開いていた。肩ひもも細いリボンだけで、なんだか心もとない。 馬車に乗り込み、マリエッタの隣に座ったフィリスは、長い髪を前に垂らして、なんとか胸を隠した。 馬車がゆっくり走り出すとすぐに、継母がいつになく優しい笑顔をフィリスに向けた。「フィリス。実は、今日はあなたにお願いがあるの」「……はい」 どんな態度であれ、継母に声をかけられると思っていなかったフィリスの体は強張った。「もし、グランツ商会の方が神織りを見せてほしいと言ってきたら、やってほしいのよ」「それは……お姉さまではなく、私がやっているところがバレるのではないですか?」 今まで姉がしていたことになっていたのだ。 それを急に別の人間が人前でやってもいいのかな?「そこは、私がうまくやるわ。お前は、ただ何も言わずにやればいいだけよ」 真っ赤な口紅をしたマリエッタは、自信満々に足を組み、胸に手を当てた。 何をどううまくやるのかは、フィリスには分からなかったが、あえて聞かなかった。フィリスにとっては、今日どれだけ目立たないように過ごして、隙を見て逃げだすかしか興味がなかった。「いいか」 父が念を押すように、フィリスを指さした。「くれぐれも余計なことをするな。お前は、ここまで育ててやった私たちのために言われたことをやればいいんだ」「……はい」 ――言いたいことは、ある。 毎日、工房に閉じ込められて、働かされて、少しの食料だけ与えられるだけ。それは、育ててもらったと言えるのか。 フィリスは、窓の外を流れる久しぶりの王都の景色を眺めて、胸の中のもやもやを考えないように努めた。 馬車は、王都の街の中を進み、大きな運河の前にある立派な佇まいの建物の前でゆっくりと停車した。 一家で最後に馬車を降りたフィリスは、息を呑んだ。 赤茶の重厚な石造りの建物。いくつも並ぶ白い窓からは、きらびやかな光が漏